旅こそ我が人生

72歳、残りの人生のために、これまでのかなり愚かな人生を美化するための(笑)ストーリー(2022年10月再開)

養子になりそうだった私

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戦後の物のない時代は終わっていたけど、社会全体が決して豊かとは言えない時代だった。もちろんひもじい思いをした記憶はない。でもうちは貧しかったのかもしれない。他人と比べることを知らなかった私は自分の家がお金持ちなのか貧しいのかなんて考えたこともなかった。それなりに満ち足りていた。


ところが三歳のときに、私は教会のかたで子どものいないKさんという夫婦の家に養子に出されることになった。大きな敷地のおうちで、母屋にやKさんの親と兄弟家族が住んでいた。庭も広くて鶏もいた。私はもう赤ちゃんではなかったので、本人の気持ちを尊重しようということになったらしく、三日間試しにその家で暮らしてみた。三日間それなりに楽しかったのか泣かずに過ごした。お隣の女の子ともままごとして遊んだし、ご夫婦は優しかったけど、当然、最初から私は元の家に帰るつもりだった。小さな子にとって、お金持ちになれるかどうかなんて幸せとは関係ないんだ。でもじつは、母屋の中学生くらいのお兄ちゃんが、私に「おまえ、帰れ」といったのだ。あの一言で私の気持ちは決まったのかもしれない。あれはちやほやされる新入りへの嫉妬だったんだろうか。
その後、K夫婦は赤ちゃんを養子にもらったと、母から聞いた。
この時の記憶が私のいちばん古い記憶だ。人は危険なできごとに遭遇すると、記憶に残るというけど、あれ以来ますます、いい子にしないと、かわいい子でいないと、と思うようになったのかも。
今の時代より養子に出すということが多かった時代だとはいえ、子どもをあげてしまうなんて、どういうことだろう。そのことで親を糾弾したことはないけど、私の自己評価の低さ、自信のなさ、自己主張のできなさ、そういう性格は、あの体験で強化されたのかもしれない。
でも、もしかしたら資産家の一人娘として、小学校から神戸女学院に入って、自己評価の高い自信家になっていたかもしれない、とか妄想する。


私はいつもにこにことした感じのいい子に育った。
幼稚園には二年間通った。改革派というキリスト教の幼稚園だった。教会の牧師が園長先生で、優しい牧師夫妻だった。
幼稚園の時に両親は家を買った。御屋敷通をまっすぐ北に行った、長田区山下町という町で、文字通りの山の下、そこから急な坂道が高取山のほうへ向かって続いていた。山陽電車のすぐ北側、西代駅の近くで、車も入れない路地に建ってた家だが、当時はそんなのは普通だったと思う。私は高校卒業までその家で暮らすことになる。

両親のこと

稲城に借りていたアトリエをたたむことにして、夏から片づけに通ってきましたが、行くとぼんやりと思い出にふけったりして、なかなかはかどりませんでした。とにかく細かい絵が多くて、いるものといらないものの分別に時間がかかりすぎました。ようやく先週引っ越し終了。あと、ガスオーブン二台とピアノが残ってます。


さて、わが半生記を始めましょう。


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第二次世界大戦が終わったのが1945年。
それから五年後の1950年、復興しつつある神戸の町に私は生まれた。
三人姉妹の三女。父は事業を興していたので、あとつぎがほしかったのに、期待は裏切られたわけだ。産婆さんは私を見て「あらー、この子は大事なものをおなかに落としてきたよ」と言ったそうだ。その話を聞かされるたびに申し訳ない気持ちにさせられたものだ。
  だからだろうか、私は、いい子でいなくては、親に喜ばれる子でいなくては、という気持ちが強かった。もちろん人間は承認欲求を生まれつき備えているものだが、自分は自己顕示欲が強かったなーと、しみじみと思う。


神戸市長田区御屋敷通、これが私の記憶する最初の住所だ。三歳ごろから住んだのかなぁ。
父の家は兵庫区和田崎町。本籍地はそこだった。父は和田岬の近くで育ったわけだ。
川村さんちに生まれたものの、西田家の養子になった。理由は知らなかったが、ウキペディアによると(!)、赤ちゃんの父を残して母親が亡くなったからとのこと。
少年昌一は、三菱の造船所で働いていたが、自分が養子であったことを知り、育ててくれた親にとても感謝を感じた、と言っていた。考えることがあったのだろう、キリスト教の教会に通うようになり、やがて塩谷聖書学校に入り、牧師となった。
どんないきさつか、父は、日本が占領した朝鮮半島に伝道にでかける。
やがて教会は牧師を養う資金が無くなり、だれかお金を稼いでくれる伴侶を探すことになり、東京で教員をしていた母が名乗りをあげたらしい。その辺のいきさつはあまり詳しくは知らない。
実は父には好きだった朝鮮人の女性がいた。教会の人。でも結婚は許されずだった。
そんなことを父から聞いたっけ。


母、余志子は旧姓石動(いするぎ)、金沢のうまれ。親戚のない父に比べ、母にはたくさんの兄弟姉妹がいたので、私のいとこは全部金沢出身だ。そこで母は熱心なクリスチャンになった。朝鮮半島で伝道をしている青年牧師に、会ったこともない男性なのに結婚することを選んだ、深い信仰の人だった。人生を神様に捧げる決心をしたのである。そして海を渡る冒険心も持っていた。
日本の占領下の朝鮮で母は学校の先生をした。
あまりよい思い出はなかったのかも知れない。当時の日本政府は隣国を日本化しようとしていたんだから。日本名を名乗らせ、日本語で教育した。当時の方たちは強い反日感情を持っている。唯一、母が学校での出来事で語ってくれたのは、冬、ストーブにあたっていた女の子のチョゴリに火が燃え移って大やけどをした、というかわいそうなエピソード。母は韓国料理どころかニンニクさえ買ってきたことがない。


戦争が始まり、父にも召集令状が来た。
兵隊になった父は、それでも人は殺さない、と密かに決心していたらしい。ある時、敵の兵士を銃殺しなければならない状況に陥り、もはや銃を打つしかないか、というとき、なぜか突然中止となり、人を殺さずにすんだんだ、という話をしてくれたことがあった。兵役を拒否することはできなかった父は、それでも良心を保って戦争に参加したのだろうか。
フィリピンに送られてレイテ島をさまよった。父の部隊はほぼ全滅した。怖かったのはアメリカ兵ではなく日本兵だったと言っていた。食べ物や持ち物を奪われるのだ。でも、ジャングルで、死にかけた兵隊さんからメンソレタ―ムの小さな缶に入った塩をもらったりして生き延び、最後にアメリカの捕虜になった。
捕虜収容所ではとても待遇がよかった。食べ物も豊富で太った。娯楽もあたえられ、小さな笛をもらって国に持ち帰った。(その笛は娘たちのおもちゃになり、今も娘から孫へと大切にされている。そろそろひ孫もそれで遊ぶだろう)
おそらく、クリスチャン、それも牧師だった父は、アメリカ人からは友好的に扱われたことだろう。


敗戦により半島の日本人は過酷な状況の中、本土に引き揚げる。
引き揚げ船の話は断片的にしか聞いてないが、二歳になる長女(父が出征するときに母のお腹にいた)と舅姑を連れての船旅は苦労の多いものだったようだ。中国残留孤児のような運命の子どもたちもいたんだろうか。
舞鶴港から神戸へ。
神戸は焼け野原。
父の復員。その後、戦死の報せが届いたらしい。なにしろ全滅部隊いだったから。
父が死んでいたら、私も生まれることはなく、私の子どもも存在しない、と思うと不思議な気持ちになる。世界は偶然で成り立っているのか。
復員した父は闇での商売をして(ゴム長靴を売ってたらしい)などして生計を立てた。
自分は戦争に参加した、もう牧師に戻ることはできないと思ったそうだ(自分でで思ったのか、教会に言われたのか、それは知らない)
その後三年して次女和代誕生。
さらに二年後、三女容子誕生。はじめ、父の名前をとって昌代と名付けたが、その字は使えませんと役所で断られ、容子としたそうだ。ふむ、私としては容子でよかった、かな。
栄養状態のせいか、うちの三人姉妹は下になるほど身長が高い。


父が聖書関係の書店を開いたのがいつだったのか、私が生まれたときにはすでに父は「おみせ」に出勤するパパちゃんだった。


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きょうはここまでにします。
書き始めると、両親からもっとお話を聞いておけばよかった、と思います。貴重な体験を。
戦争を知らない世代の私たち。


西田昌一は、ウキペディアにも出てきます。私って歴史に残る人のこどもなんだなぁ。
私は父の何を受け継いだのだろう。

あれから幾星霜

気まぐれに始めたこの日記、放置していたわー。
あまりに生活に忙しかったのと、ほかにもブログやインスタ、ホームペーを書いてたのでね。
gooブログ「絵を描こう旅に出よう」
パン教室のブログ「パンがふくらむ夢もふくらむ」
パン教室のホームページ「若葉台パン教室」
旅のブログ 「voyager」(バルト海紀行) 2017年開始
旅に備えてのWordPressでのブログ  2019年開始


などです。




猫たちは、ネムネムは2018年9月、小さいほうのチュチュは2019年12月に、天寿を全うして天国へ。寂しくなりました。



この写真は文脈と関係ないですけど、きょうメルカリで売れた琉球ガラスの水差しです。断捨離って寂しいなー、好きなものが一つずつ去ってゆく。




チュチュが死んで少し後、コロナが始まりました。
パン教室頑張ろう!と思っていた矢先のこと。教室は継続できなきなり、パン屋に転身。
その後、わけあって大分に一年間親戚のおうちで住み込みのキャットシッター(笑)。
ことし2022年4月に横浜娘宅へ。家政婦兼ベビーシッターみたいに働いてます。


さて、いつ死ぬかわからないから長かった人生のあれこれを書き留めておこうと思って始めたこのブログ、まじめに取りかかろうかな。72歳、自伝書くにはいい歳ですね。


私には二つ違いの姉がいます。エホバの証人です。
私は26歳でその宗教組織から離れたので、姉とは親しく交流していません。
その姉に先日あったときに、母の遺した日記帳を預かりました。私が母の日にプレゼントしたノート(手作りの布カバーつき)に書かれた日記は、母の晩年のもので、父と二人暮らしのとき、父が亡くなったとき、その後姉と暮らしたときのものです。
日記帳の残りのページには、姉から私へのメッセージが書かれていました。


読んだ後、返事を書き始めたのですが、途中でやめています。
姉の知らない私を少しでも知ってもらえたら、と思ったのですが、続かなかった。
なので、これからここに書いていこうと思います。
公開すると思えばあまり正直には書けないかとは思いますが、人間の記憶や思い込みはたいてい真実とは少しゆがんでいるもの、自分の思いたいように思うのが人間。どうせ記憶も美化してしまうものなので、一つのストーリーとして書いてみよう。