旅こそ我が人生

72歳、残りの人生のために、これまでのかなり愚かな人生を美化するための(笑)ストーリー(2022年10月再開)

両親のこと

稲城に借りていたアトリエをたたむことにして、夏から片づけに通ってきましたが、行くとぼんやりと思い出にふけったりして、なかなかはかどりませんでした。とにかく細かい絵が多くて、いるものといらないものの分別に時間がかかりすぎました。ようやく先週引っ越し終了。あと、ガスオーブン二台とピアノが残ってます。


さて、わが半生記を始めましょう。


★★★★★★★★★★★★
第二次世界大戦が終わったのが1945年。
それから五年後の1950年、復興しつつある神戸の町に私は生まれた。
三人姉妹の三女。父は事業を興していたので、あとつぎがほしかったのに、期待は裏切られたわけだ。産婆さんは私を見て「あらー、この子は大事なものをおなかに落としてきたよ」と言ったそうだ。その話を聞かされるたびに申し訳ない気持ちにさせられたものだ。
  だからだろうか、私は、いい子でいなくては、親に喜ばれる子でいなくては、という気持ちが強かった。もちろん人間は承認欲求を生まれつき備えているものだが、自分は自己顕示欲が強かったなーと、しみじみと思う。


神戸市長田区御屋敷通、これが私の記憶する最初の住所だ。三歳ごろから住んだのかなぁ。
父の家は兵庫区和田崎町。本籍地はそこだった。父は和田岬の近くで育ったわけだ。
川村さんちに生まれたものの、西田家の養子になった。理由は知らなかったが、ウキペディアによると(!)、赤ちゃんの父を残して母親が亡くなったからとのこと。
少年昌一は、三菱の造船所で働いていたが、自分が養子であったことを知り、育ててくれた親にとても感謝を感じた、と言っていた。考えることがあったのだろう、キリスト教の教会に通うようになり、やがて塩谷聖書学校に入り、牧師となった。
どんないきさつか、父は、日本が占領した朝鮮半島に伝道にでかける。
やがて教会は牧師を養う資金が無くなり、だれかお金を稼いでくれる伴侶を探すことになり、東京で教員をしていた母が名乗りをあげたらしい。その辺のいきさつはあまり詳しくは知らない。
実は父には好きだった朝鮮人の女性がいた。教会の人。でも結婚は許されずだった。
そんなことを父から聞いたっけ。


母、余志子は旧姓石動(いするぎ)、金沢のうまれ。親戚のない父に比べ、母にはたくさんの兄弟姉妹がいたので、私のいとこは全部金沢出身だ。そこで母は熱心なクリスチャンになった。朝鮮半島で伝道をしている青年牧師に、会ったこともない男性なのに結婚することを選んだ、深い信仰の人だった。人生を神様に捧げる決心をしたのである。そして海を渡る冒険心も持っていた。
日本の占領下の朝鮮で母は学校の先生をした。
あまりよい思い出はなかったのかも知れない。当時の日本政府は隣国を日本化しようとしていたんだから。日本名を名乗らせ、日本語で教育した。当時の方たちは強い反日感情を持っている。唯一、母が学校での出来事で語ってくれたのは、冬、ストーブにあたっていた女の子のチョゴリに火が燃え移って大やけどをした、というかわいそうなエピソード。母は韓国料理どころかニンニクさえ買ってきたことがない。


戦争が始まり、父にも召集令状が来た。
兵隊になった父は、それでも人は殺さない、と密かに決心していたらしい。ある時、敵の兵士を銃殺しなければならない状況に陥り、もはや銃を打つしかないか、というとき、なぜか突然中止となり、人を殺さずにすんだんだ、という話をしてくれたことがあった。兵役を拒否することはできなかった父は、それでも良心を保って戦争に参加したのだろうか。
フィリピンに送られてレイテ島をさまよった。父の部隊はほぼ全滅した。怖かったのはアメリカ兵ではなく日本兵だったと言っていた。食べ物や持ち物を奪われるのだ。でも、ジャングルで、死にかけた兵隊さんからメンソレタ―ムの小さな缶に入った塩をもらったりして生き延び、最後にアメリカの捕虜になった。
捕虜収容所ではとても待遇がよかった。食べ物も豊富で太った。娯楽もあたえられ、小さな笛をもらって国に持ち帰った。(その笛は娘たちのおもちゃになり、今も娘から孫へと大切にされている。そろそろひ孫もそれで遊ぶだろう)
おそらく、クリスチャン、それも牧師だった父は、アメリカ人からは友好的に扱われたことだろう。


敗戦により半島の日本人は過酷な状況の中、本土に引き揚げる。
引き揚げ船の話は断片的にしか聞いてないが、二歳になる長女(父が出征するときに母のお腹にいた)と舅姑を連れての船旅は苦労の多いものだったようだ。中国残留孤児のような運命の子どもたちもいたんだろうか。
舞鶴港から神戸へ。
神戸は焼け野原。
父の復員。その後、戦死の報せが届いたらしい。なにしろ全滅部隊いだったから。
父が死んでいたら、私も生まれることはなく、私の子どもも存在しない、と思うと不思議な気持ちになる。世界は偶然で成り立っているのか。
復員した父は闇での商売をして(ゴム長靴を売ってたらしい)などして生計を立てた。
自分は戦争に参加した、もう牧師に戻ることはできないと思ったそうだ(自分でで思ったのか、教会に言われたのか、それは知らない)
その後三年して次女和代誕生。
さらに二年後、三女容子誕生。はじめ、父の名前をとって昌代と名付けたが、その字は使えませんと役所で断られ、容子としたそうだ。ふむ、私としては容子でよかった、かな。
栄養状態のせいか、うちの三人姉妹は下になるほど身長が高い。


父が聖書関係の書店を開いたのがいつだったのか、私が生まれたときにはすでに父は「おみせ」に出勤するパパちゃんだった。


★★★★★★★★★★★★


きょうはここまでにします。
書き始めると、両親からもっとお話を聞いておけばよかった、と思います。貴重な体験を。
戦争を知らない世代の私たち。


西田昌一は、ウキペディアにも出てきます。私って歴史に残る人のこどもなんだなぁ。
私は父の何を受け継いだのだろう。

×

非ログインユーザーとして返信する